↑ ここで取り上げるのは、いつもは美味しくできているのに、たまたま失敗してしまったというそばではなく、「根本的に美味しくない十割そば」について説明しようと思います・・・・続きは写真をクリックしてください
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(1) このごろ、うまい蕎麦を食べさせる店が、確かに増えた。名店、老舗の蕎麦の食べ歩きをする人も多くなっている。現代の蕎麦事情は、まさにブームの様相を呈しているが、実は江戸の昔にも似たようなことが行われていたことをご存知だろうか。江戸の人々も蕎麦の食べ歩きを楽しみ、その感想を記録に残していたのである・・・・・記事ページへ
(2) 「藪そば」が時代を超えて人々を魅了する秘密は、どこにあるのか。蕎麦屋は、基本的に個人の技術や感性を土台にして成り立つ職業だ。蕎麦を打つ人が変われば、蕎麦そのものが変わってしまう。蕎麦つゆを作る人が変わっても事情は同じだ。まったく同じ味を作り出すことは、不可能に近い。代が替わるということは、別の店になってしまうのと同じことだとさえ言える。料理の名声というものは詰まるところ、料理人個人に帰属するものなのだ・・・・・記事ページへ
(3) 「藪蕎麦」という名前は、どことなく枯淡な印象があり、蕎麦屋にはいかにも相応しい響きがある。この名前は、いつ、どのようにして始まったものなのだろうか。新島繁の著書によると、「藪蕎麦」という名の店は、古くは江戸時代中期、元禄16年(1703)ごろに現れるという。雑司ヶ谷鬼子母神の近く、茶屋町を外れた藪の中に、一軒の農家があった。この家で食べさせてくれる蕎麦がうまいと評判になり、雑司ヶ谷の名物にまでなった。鬼子母神への参拝客は、参拝する前にこの家に蕎麦を注文しておいて、参拝を終えた帰りに蕎麦を食べた・・・・・記事ページへ
(4) 蕎麦の歴史に詳しい方は、この章のタイトル『藪蕎麦を知れば蕎麦がわかる』をご覧になって、「なぜ、砂場ではなく、藪なのか」と、思われるかもしれない。蕎麦屋の暖簾で砂場は藪よりも、はるかに長い歴史を持つ。蕎麦屋の歴史を遡るなら、藪よりもむしろ砂場だろうと思われるのも無理はない。しかし、理由があるから、ここでは藪に注目するのだ・・・・・記事ページへ
(5) 『かんだやぶそば』の蕎麦は、なぜ緑色をしているのだろう。『かんだやぶそば』、『並木薮蕎麦』、『池之端藪蕎麦』(平成28年(2016)に閉店)は、藪御三家と呼ばれる。『かんだやぶそば』の初代が堀田七兵衛。その三男、堀田勝三が創業したのが『並木薮蕎麦』。同店から昭和29年に暖簾分けされたのが『池の端藪蕎麦』だ。初代は『並木薮蕎麦』堀田勝三の三男、鶴雄である。御三家と呼ばれるのは、いずれの店も『かんだやぶそば』初代、堀田七兵衛と血縁になるためだ・・・・・記事ページへ
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