
(奥そこのしれぬさむさや海の音)
越前そばと、遊女哥川(歌仙/かせん)を訪ねる旅
写真と文 片山虎之介
江戸時代中期、越前の国、三国湊に、俳人として遠く江戸にまでその名を知られた遊女がいました。俳号は哥川(かせん)。
奥そこのしれぬさむさや海の音 哥川
北前船の取材で訪れた三国町の小さな寺でこの句を目にして、私は哥川と出会ったのです。
彼女が遊女であったことも、そのとき知りました。
以来、哥川のことを取材したいと思いながら、かなわずに時が過ぎていきました。
私の胸の中には、「奥そこのしれぬさむさ」を深奥に包み込んだ遠い海の音が、ずっと鳴り続けていました。

三国町を再訪したのは、初冬の冷たい雹雨(ひょうう)が降りかかる日でした。
烈風が吹き荒れ、海には白馬の群れに似た無数の高波が押し寄せていました。
町を見下ろす「みくに龍翔館」で、哥川の肉筆と伝えられる書簡を見ました。
優美な筆跡です。柔らかな線が震えて、優しげな声が聞こえてくるようでした。
300年も昔の、ひとりの遊女の書いた手紙の保存状態の良さに、少なからず驚きながら、私はそれをカメラに収めたのです。
三国町には、哥川のことを30年以上に渡って調べ続けている、大森喜代男さんという研究家がおられます。大森さんにお願いして、三国の町を案内していただきました。
入り組んだ小路を歩きながら、大森さんは今まで調べてきた哥川のことを、ぽつりぽつりと話してくださいました。
それによると、哥川に関する確かな資料は、ほとんど存在しないのだそうです。最も詳しい文書は、寛政10年(1798)に著された「続近世畸人伝」ですが、これにしても伝聞として哥川を紹介しているに過ぎず、正確な史実とは言いがたいのです。
そのほかには、遠国から三国を訪れた俳人が書いた道中日記や俳書などに、哥川の名や句を見つけることができる程度。
哥川は深い謎の向こう側にいました。しかし彼女は確かにこの三国で生き、多くの句を残したのです。それは間違いないと大森さんは言います。

福井県三国町は今でこそ北陸の小さな漁港ですが、江戸時代中期には日本海を往来する北前船の寄港地として繁栄を謳歌していました。
享保10年の記録によると、三国湊と、それに隣接する出村の遊郭にいた遊女は、合わせて147人。おそらく哥川も、この数の中に含まれているのでしょう。
哥川は京都東山から、享保7年(1722)、わずか6歳で三国の遊郭に売られてきました。
成長した彼女は、高級遊女として店に出されます。その美貌はかなりのもので、はるばる江戸から通ってくる馴染み客もいたようです。
しかし、いくら評判になっても、遊女は所詮とらわれの身。外出は厳しく制限され、客をとるだけの日々が続きます。
華やかな衣装で着飾ってはいても奴隷同然で、人間らしい生活など望めません。
廓から抜け出そうと、逃亡を企てた遊女の多くは捕まり、他の者への見せしめとして、残酷なリンチにかけられました。落命する者も少なくなかったと伝えられています。
哥川の置かれた状況も、まったく同じでした。苦界で生きる哥川に、天上からさし下ろされた一筋の蜘蛛の糸、それが俳句でした。彼女はそこに魂の拠り所を見出したのです。
三国湊、永正寺の住職、俳号巴浪に手ほどきを受け、哥川の上達は早かったといいます 。
天賦の才もありましたが、廓に生きる者ならではの視点が、その句に特異な個性を与えました。やがて哥川の名は、加賀の千代女とともに、江戸の人々に聞こえるまでに大きくなっていったのです。
残された5・7・5の17文字をなぞれば、今でも哥川の心の内が、色鮮やかに見えてきます。
遊女という過酷な運命を生きながら、俳句を志すことにより、哥川は遥かな時を隔てた私たちにまで聞こえる永遠の声を手に入れたのです。

資料提供/大森喜代男
取材協力/みくに龍翔館 福井県三国町
福井県は、小さな町の小さなそば屋さんで、おいしいそばを食べられることが魅力です。地元の方が、そば好きなので、どこの町にも、そば屋さんがあるし、外れがないのです。
有名な観光地でもない普通の町を、ふらりと訪ね、名前も知らないそば屋さんのそばの美味しさに驚くという、他の地域では体験できない特別な時間を楽しんでください。
中でも、おすすめの店は、こちらです。


手打ちそば 八助
福井県勝山市栄町1-1-8
電話0779-88-0516
(アクセス)
えちぜん鉄道勝山永平寺線、勝山駅下車、徒歩15分
勝山駅から約1km。
(営業時間)
11時~14時: 17時~21時(売り切れ仕舞い)
水曜日は昼のみ
(定休日)
木曜(祝日の場合は営業)
(地図にリンクします)
https://goo.gl/maps/zXCUFhnzijj4roPW9
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