『かんだやぶそば』に伝わる「蕎麦屋の気配」

そばの特集記事

 

『かんだやぶそば』の始まりは『砂場』から

写真と文=片山虎之介

 

蕎麦の歴史に詳しい方は、この章のタイトル『藪蕎麦を知れば蕎麦がわかる』をご覧になって、「なぜ、砂場ではなく、藪なのか」と、思われるかもしれない。蕎麦屋の暖簾で砂場は藪よりも、はるかに長い歴史を持つ。蕎麦屋の歴史を遡るなら、藪よりもむしろ砂場だろうと思われるのも無理はない。しかし、理由があるから、ここでは藪に注目するのだ。

堀田さんは、『かんだやぶそば』の始まりについて次のように言う。

「堀田七兵衛は、団子坂の蔦屋支店、通称薮蕎麦を引き受ける前は、4代続いた砂場の暖簾を背負って蕎麦屋を営んでいました。浅草蔵前の『中砂』という店でした。堀田七兵衛は由緒ある砂場の暖簾から、新興の藪の暖簾に乗り換えたのです。その大胆な決断の背景には、明治という時代と、機をみるのに敏な堀田七兵衛の才覚があったのだと思います」

蔦屋、通称藪蕎麦は、江戸末期、新興の蕎麦屋として登場し、瞬く間に時代の寵児となった。武家屋敷を改造した店舗に、浴場をしつらえ、客の浴衣まで用意した事業家としてのアイデアは斬新だった。藪蕎麦は、飲食を提供するだけにとどまらず、蕎麦を気持ち良く、楽しく食べてもらうことをコンセプトに、まったく新しいビジネスモデルを作り上げたのだ。

それは江戸期に連綿と続いてきた蕎麦屋にはなかった発想だった。堀田七兵衛は、おそらくそれを目の当たりにして、大きな衝撃を受けたのだろうと堀田さんは言う。

 

「かんだやぶそば」の店舗
「かんだやぶそば」の外観。高いビルに囲まれた一角に、趣のある建物が蕎麦好きの客を待っている。

 

「藪蕎麦」は新しい蕎麦の時代の開拓者だった

時は明治。古い価値観が音を立てて崩れ、新しい時代が地響きを伴って始まりつつあるタイミングだった。堀田七兵衛は、藪蕎麦に、蕎麦屋の未来を見たのだろう。だから中砂と呼ばれて親しまれていた老舗の看板をおろし、薮蕎麦の暖簾をかかげた。この出来事は、今振り返れば、蕎麦の歴史の大きな転換点だったともいえる。

スイッチを切り替えたのは、藪蕎麦だった。だからこそ、この章では藪蕎麦を取り上げたのだ。

「江戸の平安がずっと続いていて、明治という変革の時代が、もしもなかったとしたら、今のような形で藪蕎麦は、存在していなかったかもしれませんね」と、堀田さんは言う。

家訓として伝えられているわけではないが、おいしいものを気持ち良く食べてもらう環境を作ることが、現在も『かんだやぶそば』の基本理念だ。

東京・神田淡路町。周りを白亜のビルに囲まれ、古風な瓦葺きの家『かんだやぶそば』がある。庭には竹の葉が風にそよぎ、大都市の一角に江戸の気配が、かげろうのようにゆらめいている。

 

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