
特集・藪蕎麦を知れば、蕎麦がわかる 蕎麦Web増刊号
江戸っ子も楽しんだ「そばの食べ歩き」
写真と文=片山虎之介
このごろ、うまい蕎麦を食べさせる店が、確かに増えた。名店、老舗の蕎麦の食べ歩きをする人も多くなっている。現代の蕎麦事情は、まさにブームの様相を呈しているが、実は江戸の昔にも似たようなことが行われていたことをご存知だろうか。江戸の人々も蕎麦の食べ歩きを楽しみ、その感想を記録に残していたのである。
『蕎麦全書』という、寛延4年(1751)に書かれた書物がある。これは稿本といって、手書きの原稿を綴じた私家版の本だ。だから、この世に一冊しか存在しない。
蕎麦好きの著者は、日新舎友蕎子というペンネームを使っているが、その経歴や人となりは判っていない。書かれた内容から判断して、どうやらプロの蕎麦職人ではなかったようだ。しかし蕎麦にかける情熱は相当なもので、素人にしてはかなり突っ込んだことまで書いている。
この本は、いわば江戸時代の蕎麦好きおじさんが書いた、個人的な蕎麦日記のようなものだ。趣味で書き残した一冊が、今となっては江戸の蕎麦がどのようなものであったかを知るための、第一級の資料となっている。この『蕎麦全書』から垣間見える、江戸の蕎麦屋の様子を、ちょっとのぞいてみよう。
江戸の蕎麦屋は個性豊かだった
当時、江戸には蕎麦屋が乱立し、蕎麦屋同士の競争が激しかった。厳しい淘汰の時代を勝ち抜くために、蕎麦屋はそれぞれに独自性を打ち出そうと苦心していた。
しかし、どこの店もうまい蕎麦を作ろうと力を尽くしていたことだろうから、蕎麦そのものの味で差を付けるのは難しかったに違いない。手っ取り早く、奇抜な器を使ってみたり、蕎麦を供するスタイルなどで差別化を図ろうと考えた店が多かったようだ。
そうした一軒に、堀留の『富田屋』がある。この店では、すべての器や道具を、赤い色で統一していた。メニューの名前は「玉垣そば」。玉垣とは、神社とその外界の境界を示す垣根のことだ。朱塗りの湯桶に蕎麦を入れたり、温かい蕎麦を好む人はそこに湯を入れ、湯桶の口から湯を注いで食べたのだという。『富田屋』の一人前の蕎麦の量は大変少なかったが、評判は良かった。しかし事情があって、閉店してしまったのだという。
小船町二丁目新道には『大和屋』があった。ここの名物は「朝日蕎麦」。前述の『富田屋』が繁昌した様子を見て、同じように器を工夫したようだ。『大和屋』では、朱塗りの器ではなく、錫の茶碗に蕎麦を盛り、ガラス玉のつまみの付いた秋田杉の曲げ物を蓋として用いた。杉箸を包んだ紙には、薬味に寄せた恋歌が書いてあり、春慶塗の桐箱が蕎麦の上にかぶせてあったらしい。なんとも洒落た蕎麦だが、この『大和屋』も大変人気があり、はるばる遠方から客がやってきたという。
もっと手軽に個性を打ち出したのが、本所相生町の『相生そば』だった。この店では、客が「そば」と注文すれば「あい」と言って出し、「うどんを」と注文すれば「おい」と言って出した。だから『相生そば』だというのだが、江戸の人々はこれを面白がり、評判になったようだ。
歌麿も描いた蕎麦屋の風景
当時の蕎麦屋の営業のスタイルが、いかに多彩であったかという見本にもなる店が、「駅路(うまやじ)そば」だ。ここは旅の気分を味わいながら蕎麦を食べてもらおうと、座敷ではなく腰掛けて食べさせていた。十返舎一九や歌磨呂の旅の本などを見ると、店先に腰掛けて蕎麦を食べる旅人の姿が描かれているが、腰掛けて蕎麦を食べるということは、それほどに非日常的な行為であったのだ。

これらの店のように器や雰囲気で差別化するのではなく、蕎麦そのものの味で勝負していた店も、もちろんある。
浅草馬道、『伊勢屋』の「正直そば」は、蕎麦粉十割の生粉打ちだったという。他のほとんどの蕎麦屋では小麦粉を混ぜて蕎麦を打っていたが、ここは正直に小麦粉を混ぜないことが売りだった。本店は、芝宇田川町の『正直屋』で、そこから出た店だというが、本店の蕎麦は「正直そば」のメニューでも、あまりよろしくない。しかし、ここ『伊勢屋』の蕎麦は、「真っ正直」といって念を入れているのは至極よろし、と書かれている。
蕎麦屋の屋号に「庵」がつくのは、浅草の『道光庵』が始まり
際立って個性的だったのは、お寺が蕎麦屋のようになってしまった浅草の『道光庵』だった。先々代の庵主が、蕎麦打ちが上手で、檀家が寺にお参りに来ると、蕎麦を打ってもてなしていた。庵主本人も座敷に出て、客と一緒に食べた。一日に何度も食べるほど蕎麦が好きだった。盛りの量は甚だ少なくて、庵主は食べる際に箸を使わなかったという。
この寺の蕎麦がうまいと評判が広まり、毎日、たくさんの人が蕎麦を求めて訪れた。今は三代目だが、あいかわらず蕎麦好きの人が多く訪れ、寺なのか蕎麦屋なのか、わからないようになってしまっているとのこと。
現代の蕎麦屋には『○○庵』と号した店が多いが、その元をたどると、この『道光庵』に行き着くと言われている。
当時、江戸には、これ以外にも数多くの人気店があった。しかし時の流れに消え去り、今、それらの店はわずかに、古文書の中に痕跡をとどめているばかりだ。
(ページトップの写真は、静岡県島田市の人気店『藪蕎麦宮本』。『池之端藪蕎麦』で修行した、蕎麦通なら知らない人はいない名店だ)
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