
「藪そば」が時代を超えて人々を魅了する秘密は、どこにあるのか
写真と文=片山虎之介
蕎麦屋は、基本的に個人の技術や感性を土台にして成り立つ職業だ。蕎麦を打つ人が変われば、蕎麦そのものが変わってしまう。蕎麦つゆを作る人が変わっても事情は同じだ。まったく同じ味を作り出すことは、不可能に近い。代が替わるということは、別の店になってしまうのと同じことだとさえ言える。料理の名声というものは詰まるところ、料理人個人に帰属するものなのだ。
また、同じひとりの料理人でも、いつも同じレベルの味を維持できるわけではない。その時々の好不調もあれば、意識や集中力の変化。年齢による技術や体力の低下ということもある。料理人の作り出す「作品」には必ず、力が充実したピークの時期というものがあるのだ。そして、その力が失われる瞬間を、客は見逃さない。あるとき一世を風靡した店も、やがて衰退する時もくる。料理とは、なんと厳しいものだろうか。
かくして数多の蕎麦屋が、表舞台から消えていった。そうした中、ごく稀に、二代目、三代目に代替わりしても繁栄を続け、百年を超える時間を生き続けている店がある。
その代表的な暖簾が「藪蕎麦」だ。いったい、なぜ、他の店が次々と消えていく中で、この暖簾は生き残ることができたのだろう。その秘密を、藪蕎麦の本家、『かんだやぶそば』4代目当主、堀田康彦さんは次のようにいう。
「老舗というものは、昔のやり方をずっと守り続けているというふうに思われがちですが、そうではないのです。世の中の求めるものを敏感に感じとって、いつの時代も革新であり続ける努力が、長い歴史を生き抜くには不可欠なのです。藪蕎麦の歴史は、創業した当時からずっと、いつも革新の連続だったのです」
明治15年10月、通称「藪蕎麦」と呼ばれていた『蔦屋』の、神田連雀町の支店(現神田淡路町2-10)を、浅草南元町で砂場系の蕎麦屋を営んでいた堀田七兵衛が譲り受けたのが、現在の『かんだやぶそば』に繋がる店の始まりだ。
現代の「藪蕎麦」は江戸時代の『蔦屋』がルーツ
蕎麦史の研究者であった新島繁が、この『蔦屋』について詳細に調べている。それによると『蔦屋』は、人気の高い店だった。本店は駒込団子坂にあり、その敷地面積は1600坪もあったという。広い庭には人工の滝まで造られていて、客は庭を散策しながら、くつろぎのひとときを楽しんだ。
『蔦屋』の初代は山口伝次郎という人物で、伊勢安濃津藩主、藤堂和泉守の家臣であり、千駄木町にあった藤堂家下屋敷に勤番していた。
蕎麦打ちが巧みだったが、それにとどまらず、漆器の細工も玄人はだしといわれるほどの腕を持っていた。器用で多才な人物だったらしい。武士の生活が性に合わず、30歳のときにお上の許しを得て町人になった。
そして団子坂の権現山に300坪の土地を求め、蕎麦屋を開業した。最初は権現山にちなんで「山蕎麦」の愛称で呼ばれたが、その後、いつの間にか藪蕎麦に変わったという。

弘化4年(1847)ごろには、すでに、藪蕎麦の人気は高く、蕎麦通の間に知れわたっていたようだ。品書きは蒸籠一種で、蕎麦は真の生蕎麦で太打ちだったという。そのほかお椀や玉子焼きも出し、近所から鰻の出前も取り寄せたと、新島は記している。
『蔦屋』は明治時代に歴史の流れの中に消えた
また、明治34年に発行された『東京名物志』には、この「藪そば」の偉容が、次のように紹介されている。
住所は本郷区駒込千駄木林町。団子坂、藪下上にある。都下に支店を多く有し、蕎麦好きの客が蕎麦屋を数えるとき、まず最初に指を折るのがこの店だという。名物は蒸籠蕎麦。「打方最も堅く」というから、コシがしっかりしていたということだろう。蕎麦通が賞賛したという。
店からの眺めが良く、庭にも古石を配し、瀟洒な離れ座敷が多く建てられていた。菊花の季節には特に客が多く押し掛け、門にも入れず帰る者も少なくなかったという。
これほどの繁栄を極めた『蔦屋』だったが、三代目主人が相場に手を出して失敗したらしく、明治39年以前に店は無くなったということだ。
しかし、それより早く、明治15年10月、『蔦屋』が出していた神田連雀町の支店を、浅草で砂場系の蕎麦屋を経営していた堀田七兵衛が譲り受けていた。この店は、団子坂の『蔦屋』本店とは蕎麦の内容が異なり、鳥蕎麦や小田巻などの種物が好評であったようだ。
やがて本店の『蔦屋』が店を閉めたあと、支店であった堀田七兵衛の店が「藪そば」の暖簾を受け継ぎ、現代の藪蕎麦に続く本家となったのである。
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