
「藪そば」という名前は、こうして始まった
写真と文-片山虎之介
「藪蕎麦」という名前は、どことなく枯淡な印象があり、蕎麦屋にはいかにも相応しい響きがある。この名前は、いつ、どのようにして始まったものなのだろうか。
前出、新島繁の著書によると、「藪蕎麦」という名の店は、古くは江戸時代中期、元禄16年(1703)ごろに現れるという。雑司ヶ谷鬼子母神の近く、茶屋町を外れた藪の中に、一軒の農家があった。この家で食べさせてくれる蕎麦がうまいと評判になり、雑司ヶ谷の名物にまでなった。鬼子母神への参拝客は、参拝する前にこの家に蕎麦を注文しておいて、参拝を終えた帰りに蕎麦を食べた。元禄16年ごろから約90年ものあいだ栄えたというから、何代かにわたって営業したのだろう。この家が「爺が蕎麦」とか、「藪の蕎麦」などと呼ばれ、藪蕎麦の名前の元祖であると記している。当時、江戸の人々は、店を屋号で呼ぶのとは別に、その店が立地する場所などから付けた愛称で呼ぶことを好んだ。そのほうが仲間うちの符丁のようで、通らしい感じがしたのだろう。
雑司ヶ谷の「藪蕎麦」で供した蕎麦は、小麦粉などのつなぎを使わない生粉打ち。つまり十割蕎麦だった。当時、江戸の蕎麦屋の多くは、つなぎを入れて蕎麦を打っていた。雑司ヶ谷の「藪蕎麦」は例外的に生粉打ちで、風味に優れていたのだという。しかし蕎麦つゆが不味かった。そのため蕎麦好きの客は、気に入りの蕎麦つゆ持参で、この店を訪れた。藪の中に立つ茅葺き屋根の民家に、ちょんまげ姿の男たちが、手に手につゆを入れた徳利をぶら下げて行列を作る。考えてみれば微笑ましい光景だ。昔も今も、蕎麦好きは憎めない。
この雑司ヶ谷の「藪蕎麦」が、現代の「藪蕎麦」につながる店かというと、どうやら直接の関係はないらしい。
「藪蕎麦」という蕎麦屋は、それぞれの時代にいくつもあった
「藪蕎麦」という名前の起源については、別の説もある。新島繁は、この説について、藪蕎麦の始祖とするには年代的に難点があるとしているが、小説家、劇作家として知られた長谷川伸は、昭和31年に著した「材料ぶくろ」に、「藪蕎麦の始り」という見出しを設け、次のように書いている。概略を記す。
深川に、十八世の浅岡與左衛門という人物がいた。この人は前名を鈴木邦彌といい、柳生家の家老鈴木勘兵衛の弟であった。それが十七世浅岡與左衛門の養子になり、十八世を襲名した。
江戸時代に「與左衛門掘」という堀が深川にあったが、これは浅岡家が開墾したと言われている。浅岡與左衛門がどのような人物であったのかは伝記がなくて不明だが、名門の家柄であったようだ。
この十八世浅岡與左衛門が、徳造とお鶴という夫婦を救った。信州から江戸に出てきて困窮していたふたりを援助して、扇橋町に蕎麦屋を出店させた。その傍らに藪があったので、屋号を「藪蕎麦」とした。これが江戸から現在に至る、幾多の「藪蕎麦」の始祖であるという。
文化12年(1815)に発行された著名な商人を紹介した見立番付「江戸の華名物商人ひやうばん」には、深川藪の内にあった「藪蕎麦」が載っている。この店が長谷川伸の書いた、徳造とお鶴の「藪蕎麦」である。
「藪蕎麦」の蕎麦は、それぞれの店に個性がある
浅草『並木藪蕎麦』の落ち着いたしつらえは、江戸時代の蕎麦屋の雰囲気を、今に伝える。
現代では、蕎麦の好きな人なら、「藪蕎麦」の名を知らない人は、おそらくいないだろう。ときどき「さらしなではなくて、藪系の蕎麦」という言い方をする人がいる。「藪系の蕎麦」という言葉を、本人は「色の黒っぽい田舎蕎麦風の蕎麦」というほどの意味で使っているようなのだが、この言い方は正確ではない。「藪系の蕎麦」と一口に言えるほど、「藪」の蕎麦のスタイルは一様ではない。本家である神田淡路町の『かんだやぶそば』を始め、浅草の『並木薮蕎麦』、湯島にある『池の端藪蕎麦』、上野の『上野藪蕎麦』など、何軒もの藪蕎麦があるが、それぞれ店ごとに蕎麦には強い個性があり、独自の主張がある。「藪系の蕎麦」という言い方では、何も伝えることはできないのだ。

藪蕎麦を語るためには、今、述べたような歴史を知る必要がある。そして藪蕎麦各店の蕎麦に表れる特徴についても、理解しなくてはいけない。蕎麦の特徴である味や香りを語るには、蕎麦の作り方はいうに及ばず、ソバの実を栽培する畑にまで遡る知識が必要となる。
藪蕎麦を理解するということは、それらすべての事柄について理解するということ。藪蕎麦を知れば、蕎麦がわかるというのは、つまりそういうことなのである。
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